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ブレーメン (客船・3代) : ミニ英和和英辞書
ブレーメン (客船・3代)[よ, しろ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [きゃく]
 【名詞】 1. guest 2. customer 
客船 : [きゃくせん]
 【名詞】 1. passenger boat 
: [ふね]
 【名詞】 1. ship 2. boat 3. watercraft 4. shipping 5. vessel 6. steamship 
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 

ブレーメン (客船・3代) : ウィキペディア日本語版
ブレーメン (客船・3代)[よ, しろ]

ブレーメン')は、姉妹船オイローパと共にクルーズも可能なオーシャン・ライナーで、所属は北ドイツ・ロイド汽船(略称 NDL en)である。大西洋横断のために建造され、革新的なデザインが評判となった。(姉妹船オイローパは第二大戦の賠償でフランスに譲渡、リベルテと改名)。処女航海で西航、東航ともに新記録を樹立し長年にわたり保たれていたイギリス船の速度の記録を覆した。1930年代では、国家間〔イギリス、ドイツ、フランス、イタリア〕で大きさ・豪華さに重点をおいた客船の建造競争があり、2隻を所有していた国ドイツも、他国と火花を散らしていた。)は、姉妹船オイローパと共にクルーズも可能なオーシャン・ライナーで、所属は北ドイツ・ロイド汽船(略称 NDL en)である。大西洋横断のために建造され、革新的なデザインが評判となった。(姉妹船オイローパは第二大戦の賠償でフランスに譲渡、リベルテと改名)。処女航海で西航、東航ともに新記録を樹立し長年にわたり保たれていたイギリス船の速度の記録を覆した。1930年代では、国家間〔イギリス、ドイツ、フランス、イタリア〕で大きさ・豪華さに重点をおいた客船の建造競争があり、2隻を所有していた国ドイツも、他国と火花を散らしていた。
== 船歴 ==
1927年6月18日デシマーク造船(en)、ブレーメン・ヴェザー造船所で起工。
ブレーメンとその姉妹船オイローパは、大西洋を巡航速度27.5ノット、5日で横断できるように設計されていた。このことにより、通常3隻を交代させる必要がある大西洋横断を、2隻で毎週行うことが可能となった。ブレーメンはテストの際、最高速度32ノットを記録した。
本来、ブレーメンとオイローパは同時に就航する予定であったが、オイローパが作業中の火災によって沈没し、引き上げ・修理に時間がかかったため、1929年7月16日、ブレーメンはブレーマーハーフェン - ニューヨーク間の処女航海を単独で行った。この際、ブレーメンは4日17時間42分、平均速度27.85ノットでニューヨークに到着し、モーリタニアから西回り航路のブルーリボン賞を奪った。さらに次の航海では、4日14時間30分、平均速度27.91ノットを記録し東回り航路のブルーリボン賞を受賞した。これによりブレーメンは、初めて処女航海で記録を破った船舶となった。.後に、ブレーメンの記録は1930年に西回り航路を姉妹船オイローパに、1935年に東回り航路をノルマンディーに破られた。
バルバス・バウを採用した最初の大型客船で、建造に際しドイツの最先端工業技術を結集し、内装デザインや備品をドイツ国内から広いコンペティションで募集した。竣工時にはカタパルトが設置され1935年まで、ハインケルHe12で入港に先立つ24時間前頃に郵便物を積み込み先行輸送するサービスを行っていた。
のちに、斬新な船形デザインが災いし、煤煙対策で煙突は6.4mかさ上げ延長された。
ナチズムドイツで権力を手に入れた時、ブレーメンはニューヨークの桟橋に停泊しており、ナチズムを批判するデモンストレーションに使用された。また、その反対派グループが乗船した際、前方マストに掲げられていたナチスの旗を、ハドソン川に投げ込んだ。これを受けてヒトラー1935年9月15日ドイツの国旗をヴァイマル共和政時代に使用されていた国旗に差し戻すことを宣言した。〔
1939年8月26日ドイツ海軍はポーランド侵攻のため、ドイツの商船は帰還し、港に停泊するよう命じた。ブレーメンはちょうどニューヨークに到着済みで、船長は攻撃を避けるために復航の1770名乗客と共にしばらく出港を見合わせ停泊することにした。アメリカは中立国だったが参戦した同盟国の依頼や戦況からブレーメンを抑留したのち接収する工作が行われ、搭載予定の貨物添付書類などの審査が遅れ許可が下りない様子から船長は出港妨害と拿捕を察知し残りの荷揚げ作業を中止させ独自判断で8月30日悪天候の中強行出港し、北大西洋をイギリス巡洋艦を避けるように9月6日、中立国だったソ連のムルマンスクに到着した。10月10日、ブレーメンは再び出港し、10月13日ブレーマーハーフェンに到着した。この際、ブレーメンはイギリスの潜水艦サーモンに発見されたが、ブレーメンに護衛の空軍機Do 18がついていたためサーモンは潜航し、艦長の少佐は当時の海事法も考慮し、魚雷攻撃を中止した。〔http://web.ukonline.co.uk/chalcraft/sm/salmon.html
ドイツアシカ作戦に向けてブレーメンを徴用する計画であったが、艤装半ばのまま係船され1941年、ブレーメンは造船所の埠頭で火災に遭い全焼した。調査によるとこの火災は放火によるもので、破壊工作などではなく、容疑者が所有者に対する個人的な恨みを持っていたことによるものだった。再生可能な備品機器は撤去されブレーメンの船骸は1946年に解体された〔解体工事では水底に埋没した船底の一部が残された。〕。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ブレーメン (客船・3代)」の詳細全文を読む




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